演目紹介

梅川忠兵衛【うめがわちゅうべえ】
 舞踊ではポピュラーな演目。もとは近松門左衛門の浄 瑠璃「冥土の飛脚(めいどのひきゃく)」から来たもの。大坂(「大阪」の昔の呼び名)の飛脚屋・亀屋の忠兵衛は新町の遊女・梅川を身請けしようとして、手 付金五十両は丹波屋八右衛門から借りて渡していたものの、残りの金ができないでいた。そんなある日、江戸から届いた為替三百両を抱えて梅川のもとに赴こう とする忠兵衛の前に、丹波屋が現れる。丹波屋も梅川を身請けしようと思っていたのだ。丹波屋とのやりとりの中、その悪態にカッとなった忠兵衛は、思わず運 ばなくてはならない三百両の封を切ってしまう。その金で梅川の身請けが決まったものの、それは公金であり横領による死罪は必至。二人は死を覚悟して忠兵衛 の故郷・大和国新口村へ落ちのびる。

国定忠治【くにさだちゅうじ】
 幕末に実在した上州(現在の群馬 県)国定村出身の博打打ちの親分で、史実では「忠次郎」が正しい名。天保の大飢饉(ききん)の際に村人たちに施しをするなど、任侠の代表として英雄視され た。後に関所破りの罪などで捕まり、41歳で磔(はりつけ)となる。 その生涯は講釈のネタとなり、明治期には浪花節の定番演題ともなってゆくが、大正 8(1919)年に新国劇で初演された「国定忠治」が、日本人に任侠物の魅力を浸透させたきっかけと言われている。またこれが、いわゆる「剣劇」の始まり ともされ、以後の大衆演劇につながってゆく。史実的には疑問だが、「赤城の山も今宵限りノ」というあまりにも有名な台詞が出てくる、赤城山での 子分たちとの別れの場面も、すでにこの時に演じられていた。大衆演劇では芝居にせよショーにせよ、定番中の定番ネタで、いろんな脚色がなされ、さまざまな 外題で舞台にかけられている。

 

瞼の母【まぶたのはは】
 12歳で父を失い、幼い頃生き別れとなった母を捜して江戸へ出た渡世人・番場の忠太郎は、かつて忠太郎の故郷に子供を残してきた料理屋の女将・おはまのことを聞き、会いに行く。最初は路銀をゆすりに来たやくざと勘違いしたおはまだったが、すぐに息子であると気づく。だが、おはまは再婚した相手との間にもうけた娘・お登世のために、自分の子ではないと突っぱねて忠太郎を追い返す。失意のうちに出て行く忠太郎とすれ違ったお登世は、それがいつも母から聞かされていた兄だと悟る。しかし忠太郎は母と妹に名乗ることなく、一人姿を消すのだった。

「一本刀土俵入り」で有名な大衆文芸作家・長谷川伸の代表戯曲。

 

上州土産百両首

  【じょうしゅうみやげひゃくりょうくび】
 原作は大正から昭和にかけて新派の作品を多く手がけた劇作家・川村花菱による悲劇。劇団によっては「月夜の一文銭」という題名で上演されることもある。
 正太郎は板前のいい腕を持ちながら、スリの子分から足を洗えないでいた。そんなある日、正太郎は幼なじみの牙次郎と再会する。実は牙次郎もまた空き巣狙いやかっぱらいなどをして暮らしていたが、そんな暮らしに嫌気がさし、お互い死ぬ気になって地道に働こうと誓い合う。それから数年後、田舎の料亭で板前をしていた正太郎は、偶然かつての兄弟分・三次と再会する。三次はスリだった過去をばらすと脅して正太郎から二百両をゆすり取り、「銭がなくなりゃまた来るぜ」と言う。思わず正太郎は、持っていた包丁で三次を刺す。
 正太郎と再会を約した日が近づく中、御用聞きの勘次の手下となっていた牙次郎は、首に百両という賞金のかかった下手人が江戸に向かっているという話を聞く。手柄を立てて出世した自分を正次郎に見せたくて、自分に捕まえさせてくれと勘次に頼む牙次郎。
 そして約束の日。再会を喜んだ牙次郎に、正太郎は「縄をかけてくれ」と被っていた笠をとる。その額には、賞金首の人相書きと同じ傷があった。捕り手に囲まれた正太郎は、「牙次郎の手柄にしてやってくれ」と勘次に頼むが、牙次郎は自首させようとノ。黙って縄を解いた勘次に礼を言い、正太郎と牙次郎は並んで歩き出す。「あの世までの道連れ」と言いながら。

 

忠次旅日記【ちゅうじたびにっき】

あの丘越えて【あのおかこえて】

緋牡丹博徒【ひぼたんばくと】